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 かの有名な解剖学の訳書が誕生して以来、この国の解剖学はより実体に近いものになったことは皆様御承知の通りです。
 さて、ここで「実体」という言葉を使いましたのには勿論理由があります。
 今回はこの解体新書刊行以前の、解剖学書についてお話いたします。
 長らく鎖国状態にあったとはいえ、国内でも医学というものは発展を続けておりました。当然、独自の解剖学書というものが存在します。
 この独自書の精密性については別の機会にお話させて頂くとして、今からお話致しますのは「寸」という臓器についてです。
 以前に何冊か、解体新書刊行以前の医術書や医学関係の文献を見せて頂くことがありました。今では到底思いつかないような突飛な内容も多く、しかしところどころきちんとしているのも興味深く、そうして読み進めるうちにひとつ疑問に思うことがありました。
 ちらほらといくつかの文献に「寸」という臓器が出てくるのです。
 大抵の臓器は名前や形が違っていたとしても、後の解剖学書と照らし合わせて対応するものが存在します。ところがどういうわけか、この寸というものに関してはどの臓器にも当てはまらないように感ぜられたのです。
 私は早速、蔵書の持ち主でもある先生に「この寸というのは一体どういったものなのですか」とお尋ねしました。
 すると実は先生でもよく分かっていないらしく、寸についてまとめたメモ書きを見せて下さいました。道楽の走り書きということで、こちらへ掲載させて頂けることになりましたので、内容を抜粋致しますと、

・おそらく心や性格といった形のないものを収めている臓器
・全ての書に寸が書かれているわけではないが、書かれているのとそうでないのとの各書の共通性は不明
・魂は含まれない
・一寸四方の大きさがあることから寸と呼ばれている
・ここで挙げる心というものの定義は、ものを考えたり感情を作り出す器官ということではなく、思想や記憶といったその人物をその人物として成立させている精神活動のことである

 文献によって大なり小なりの差異はあるものの、大方このように認識されているとのことでした。
 ここで記憶という部分にも注釈を入れねばなりません。物事を記憶するのは脳であることは誰もが知ることですが、脳で行われる記憶活動とはまた事情が異なるのです。
 寸での記憶活動というのは、主観や改竄のない、純然とした人生の記録のことです。過去というものは人生に多くの影響を及ぼします。どういった時間を過ごしてきたから今の自分があるのか、そういった『過去に形成された人格』ひいては『純然たる人生の記録』が寸には収められているのです。
 中には『寸を摘出したことで、廃人のようになった』と書かれているものもありますが、冒頭にも述べました通り、前時代的な医学と呼べるほどの基幹が成立していたかもやや怪しげな頃の記述ですから、真偽のほどもやや怪しげであるというものです。

日實医学大学『学内広報十九号』より
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